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活動報告

事務局ニュース

リアルタイムの双葉郡&南相馬市/「7年半」後の今

避難指示区域の概念図
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NPO法人・JGK埼玉グリーンプラは、2011年9月、福島県南相馬市鹿島区の仮設住宅の皆さんに蓄光折り紙を贈ることから支援活動を始め、翌2012年からは、毎年現地を視察。去る10月31日・11月1日は、7回目の訪問となりました。
双葉郡や南相馬市などの被災地では、2016年春に、浪江町・富岡町・飯舘村などから「避難指示区域」が解除され、「帰還困難区域」(右図の赤色で示された区域)を除いた殆どの地域に、戻っても良いことになりました。
しかし、浪江町や富岡町の居住者は事故前の1割にも届いていません。
今、被災地はどのような状態なのでしょうか。

人目につかなくなっていく、除染土のフレコンバック

この1年で最大の変化は、仮置き場から、除染物の入ったフレコンバッグが姿を消してゆきつつあったことではないかと思います。

毎年、最初に訪れる楢葉町の南端にある仮置き場。 汚染土の仮置き場

ここからは、ほぼすべてのフレコンバッグが撤去されていました。
昨年は、古くなったフレコンバッグが一面に積み重ねられていた場所です。

汚染土の仮置き場

この近くの仮置き場にはまだ沢山のバッグがありました。
しかし、クレーン車やショベルカーが忙しく動き、バッグがトラックに積み込まれたり、置き場所を変えられたりしていました。

一体、大量のフレコンバッグは、どうされようとしているのでしょうか?

環境省除去土壌等運搬車

フレコンバッグを積み込んでいる大型トラックをカメラに収めました。
トラックに掲げられた表示には、「環境省除去土壌等運搬車」とありました。

環境省除去土壌等運搬車

「環境省」の表示をつけたトラックは、国道や県道をひっきりなしに走っていました。
昨年にはなかった光景です。

昨年、私達は、仮置き場のフレコンバッグについて、南相馬市に電話で問い合わせました。
仮置き場に積み重ねられたフレコンバッグは、いつ中間貯蔵施設に運ばれるのか?という質問でした。
回答はおよそ以下のようだったと記憶しています。

仮置き場の確保や、仮置き場に置いたフレコンバックの管理は、各自治体の仕事だが、仮置き場から中間貯蔵施設に搬入する仕事は、国の環境省の仕事である。
搬入作業の進行状況は国から知らされていない。

だから、「環境省」表示の大型トラックは、フレコンバッグを中間貯蔵施設に移すための作業だったのです。
大型トラックの多さからも、フレコンバッグを中間貯蔵施設に移す作業が急がれている様子が伺われました。

私たちの気になっていた仮置き場の1つが、南相馬市の国道沿いにある広大な仮置き場です。

南相馬市の国道沿いにある広大な仮置き場

ここでも、多数のクレーン車とショベルカーが作業を進めていました。移送用のトラックの姿は、ここには見られませんでしたが、「中間貯蔵施設」に移送するための作業であることだけは確かです。

除染土の最終処分場は決まっていませんから、今進めている移送作業は、単にフレコンバッグの置き場所を替えているにすぎないのではないでしょうか。中間貯蔵施設への移送は、除染土の処分が進んだことを意味してはいません。
仮置き場に提供していた土地がその所有者に戻り、その代わり、別の土地所有者の提供した土地(中間貯蔵施設)に除染物が移ることになったのです。しかも、土地を、中間貯蔵施設に提供せざるを得なかった地権者達の犠牲の上に成り立っているのです。

フレコンバッグが仮置き場から姿を消すと、勿論、住民の目には入らなくなります。大量のフレコンバッグは、作業員以外の人の目に入らなくなるのです。中間貯蔵施設は、大熊町双葉町にまたがる「帰還困難区域」にあり、立入禁止だからです。
2020年オリンピックまでに、「復興」を印象付けたいのではないのか?と、ついつい、勘ぐってしまうのです。

避難区域を解除された土地で生きる人たち

これまでの被災地訪問では、被災した土地、駅舎、鉄道等々が、どのように復旧してゆくのかを視察することに多くの時間を費やしてきました。しかし、今回は違いました。現地で生活され、仕事をされている方との出会いに多くの時間を費やすことになったのです。

1日目には、浪江町で昨秋に割烹居酒屋を開店した方(Aさん)。
そして、第一原発で働き被曝された南相馬市小高区の方(Bさん)。

2日目には、現地の農作物を販売している店(南相馬市鹿島区の「四季彩」)で、たまたま出会った生花店を営む方。
事故前には小高区などで花を出していたのですが、今は、「四季彩」の店に出してもらって営業されているとのこと。
福島生業訴訟の原告の一員でもある方でした。

また、牛を殺処分せずに、今でも無償で約200頭の牛の命を預かっている吉沢牧場主の吉沢氏ともお話しができました。原発も火力発電も、「福島」は東京に電気を送るために利用されてきたこと、そしてその結果、東電と国に、浪江町が壊されてしまった現実を強い口調で訴えられました。

私たちにはとりわけ、浪江町Aさん小高区Bさんのお話が強烈でした。
たまたま、浪江町の表通りで見かけた真新しい店に昼食を摂りに入り、そこのご主人Aさんと話し込むこと1時間半。
Aさんの「7年半」を匿名で詳細にご紹介したいのですが、避難区域解除以後、浪江町での食堂の開店はたったの3軒。いくら匿名でも、Aさんが特定されてしまうので、リアルにご紹介できないのが残念です。

浪江町の「市街地」の表通りには、新築・改築の住居が多いです。でも、人の姿はほとんど見かけません。
そして、表通りをちょっと入ると、こんな家々が続きます。

浪江町の市街地 浪江町の市街地

そんな浪江の街で店を再開したAさんです。
Aさん言わく、

解除になって帰ってきたのはほんの僅かで、それも高齢者ばかり。
若い女性と子ども達が安心して暮らせなければ、浪江は復興しない。
では、この浪江に誰が戻ると言うのか!
若い世代に「戻って来い」とは言えない。
我が子にさえ、「戻るな」と言っている。
店の客は作業員だけ。
それでも、私は、親父からの店を開業してやっていく。
若い人で、もし「戻る」人がいるなら、本気で命がけで戻って来い、と言うしかない。
それだけの覚悟がないなら、戻ってきてはいけない!

Aさんの言葉に込められた気迫に圧倒されました。

Bさんとは、当会の吉田副理事長が、6月に、たまたま南相馬市の海岸でお会いした方です。
釣りに来られた海岸で、偶然出会い、立ち話に。
そして、打ち解けてきた頃、突然、身の上を話し出されたそうです。

わしは、歯が全部抜けている。
膀胱癌で膀胱を取り、腎臓癌で手術した身体だ。
原発で働いていた。
医者は、カルテに本当のことを書かない。
上から圧力がかけられているからだ。
政府や東電の言うことは、全く信用していない。
隠してばかりいる。

その時の話の続きを詳しく伺うために、今回は、Bさんに会う約束をとり、小高区のご自宅にお邪魔しました。

Bさんは今年で83歳。
1977年から1984年まで、東電の第一原発で2号機から6号機の建設作業に関わってこられました。
Bさんが話してくれた作業の概要は、こうです。

Bさんは、私たちに当時の「放射線管理手帳」を見せてくれました。

建設当時の放射線管理手帳

被曝量の単位が、現在とは異なるので、私たちにはBさんの被曝した集積線量がどれほどなのか分かりません。
「管理」の範囲内だったのでしょうが、しかしその後、Bさんは膀胱癌と腎臓癌を患い、膀胱を切除。
そして、以来83歳の今に至るまで、ズボンの下に、二つの袋をつけたままの生活を強いられているのです。

こうした生活を強いられ、今の苦しさの原因が東電と政府にあると分かっていても、AさんBさんも、事故までの期間に東電から受けた「恩恵」には感謝しています。
東電のお蔭で、出稼ぎしなくて済むようになったことは、事実だ。そのことは有難いと思っている・・・」と。

浪江町山間部の「帰還困難区域」

2日目、埼玉に戻る途中のルートに、浪江町の山間部を組み入れました。
津島地区を見るためです。私たちが、まだ一度も足を踏み入れたことのないエリアでした。

浪江町の面積の8割は「帰還困難区域」。
車道だけは除染されて通行できますが、それでも、「長時間駐車しないで下さい」と注意書きされた看板が各所にあります。国は、もう除染しないと言っているエリアです。

この山間部に、2011年3月まで、人々が居住していた地区があります。
浪江町津島地区です。
この地区を過ぎると、道は下りになり、昨春「避難区域」が解除された川俣町山木屋地区に入ります。
津島地区は、浪江町の最深部にある集落です。
事故前の人口は1000人を超えました。小学校もあり、子ども達の声も聞こえました。
その、津島地区の写真をご覧下さい。地区の入口に当たる地域です。渓谷が紅葉に染まり始めていました。

浪江町津島地区 浪江町津島地区

しかし、どこまで行っても、誰もいません。時折、作業車だけが走り過ぎていきます。
途中に1ケ所、閉店した「郷の駅」があり、トイレが使えるので、駐車しました。
車が数台、置き去りになっていました。

浪江町津島地区 浪江町津島地区

タイヤはパンクし、車体はへこみ、錆び付いていました。

そして、津島地区の中心部に着きました。

浪江町の市街地

7年半、ずうっと時間が止まったままです。
かつて、1000人以上の人々が暮らしていた街並みは、これからどうなっていくのでしょう。
もしこのまま、故郷を奪われた状態が続くのなら、地区の人々は、自分達の去ったあとの家屋の、朽ち果ててゆく姿を、こうやって見続けていくことになるのです。あまりに残酷で、胸が痛みます。

しかし、津島地区の人々は、懸命に闘っています。
津島原発訴訟
原告は669人。住民の約半数が名を連ねているそうです。
お金が目当てではないのです。ただただ、「故郷を返せ!」の叫びなのです。
現地の家並みの前に立ち、現地の空気と景色の中に立ってみると、そうした住人の皆さんの気持ちを、少しは理解できたように思えます。

やっと買えた南相馬米

今回、私たちにとって最も嬉しかったことは、やっと南相馬で採れた新米を入手できたことでした。

南相馬産の米 南相馬産の米

地元の店「四季彩」を訪れるたびに、地元の新米が置いてないか気になってきましたが、今回は南相馬市鹿島区産の新米が数袋並べてあったのです。
7年半後にして、やっと南相馬市産のお米を手に入れることができました。
放射能被害を乗り越え、風評に抗して出荷された農家の皆さんのご苦労を思うと、感無量です。

今回は、私たちにとって7回目の訪問でしたが、訪問する度に、新たな「惨状」を知ります。
しかし、そんな状況にあっても、懸命に生活し、生業を成り立たせるために想像を超えた努力をされている人々の生き様に出会うことができました。

史上空前の原発事故が残したものを追跡し続けねばならない、と思います。
故郷を取り戻すために頑張っておられる皆さんに寄り添い続けねばならない、と思います。
来年には、もっと多くの方に、被災地を訪問して頂きたいと願っています。

(レポート文責 副理事長・吉田雅人)

 
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